陸奥という国と泰衡という人物【炎立つ】

  • 書名:炎立つ
  • 著者:高橋克彦
  • 出版社:講談社文庫
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「炎立つ」全5巻読了。ここでは主に5巻について。

藤原泰衡について

奥州平泉を考えるときに、僕の持っている知識や先入観では、藤原泰衡という人物はあまり印象が良くなかった。兄頼朝に追われ、小さいころの伝手をたどって奥州に逃れてきた源義経を、父親の藤原秀衡の遺命に背いて殺してしまう役回り。
日本人の好みのご多分に漏れず、僕も判官びいきな人間なので、藤原泰衡ってなんてひどい人なんだろうと思っていた。

まず根本的に驚いたことが、そんな藤原泰衡を主人公にもってきたこと。
奥州平泉の主人公といえば藤原秀衡ではないのか?そう思って読み始めたけれど、この本の中の泰衡はかっこよかった。

泰衡は棟梁の後継として、一個人として、蝦夷という民族として、人としてのありたい姿、国としてのあり方について思い悩む。
この頃の奥州っていうのは、半独立民族国家であって、中央政権に対して朝貢していたっていう理解でいいのかな。
国家としての貴族政治としての形式を確立してしまっている中央政権はやり方、考え方に隔たりがあって、なおかつ独自の交易ルートや資金源を持っていて。

そんな中、およそ政略的な意味のみで義経を奥州にかくまうことになる。
予定の政略から予定外だったのは、義経が英邁であったこと、泰衡は義経と義兄弟となり、時代は源平合戦へと向かう。
伊豆の北条時政に預けられた源氏の嫡流源頼朝は、援護してくれる勢力として伊豆の北条氏を頼む自分よりも、大きな経済力・戦力を持つ義経を源氏として平氏打倒をする際のライバルとして考える。この時点で、頼朝は秀衡の思惑を考え始めている。

頼朝の洞察力

さて、本書における頼朝の明敏さはこのようなところからも見受けられる。

平氏の政治の失敗への考察

平氏の政治の失敗は、天皇を中心とした貴族政治の仕組みからの脱却ができなかったこと。
この仕組みは、主に官位によるヒエラルキーに基づき、そのため官位の任命権者が大きな力を持ち、実力(武力・経済力)=官位にはならないという特徴が有る。
正義をかざすためには、官位による大義名分が必要となる。
武士階級がヒエラルキーの下位に位置する関係上、実力者となるために平氏は自身が貴族化していかざるを得ず、既存貴族との対立構造において、その仕組みの中では既存貴族も権威・大義名分を立てる点において、実力を発揮できた。
頼朝はこの点を平氏政治の失敗であると考察する。
史実においては清盛が福原へ遷都しようとしているので、既存貴族の影響力からの独立を志向していたようにも思う。ということは、この問題は武士階級のもつ共通の問題点であったかもしれない。

平泉政権の独自性と有効性

逆に奥州では中央政権に対し朝貢し、官位を得る形をとりながらも、その官位よりも地域の中のヒエラルキーが地域の中では優先される体制を確立できていた。また中央集権の構造において、職制の分離が確立されており、職制により責任分担によって機能的な組織を確立できていた。
この確立のためには、地理的な距離と、交易と鉱業におる経済的な自立、それに基づく武力の蓄積、民族的な独立心が必要であり、奥州にはその条件が整っており、中央の権威に屈せず民族の独自性を確立しようとした清衡からの奥州藤原氏の組織体制の整備が優秀であったということだろう。
頼朝は奥州の政治が、中央の政治に対し対抗する形として確立されていることに衝撃を受ける。(秀衡に対する対抗心を抱く)

頼朝の洞察

この点を伊豆にいて、義経が奥州で匿われたことを聞いた時点で洞察している。そして、自分が平氏を打倒し、源氏の頭領として既存政治に対する武家政権を確立する上で指標にする形ととらえ、その内容を詳しく知ろうとする。戦闘、政争に対する勝利という目的の向こうに、目指すべき形としての目標を持っていたことに、頼朝の凄さ、明敏さが表れているように思う。

泰衡の死に様

義経を逃がし、泰衡は蝦夷というあり方を存続させるために死ぬわけだが、殺された後その額には太い釘を打たれたという。
3巻で(前九年の役)で殺された清経が鋸引きで、泰衡が釘打ちと、その殺され方には残酷なものがあるけれども、これは階級的な嫌悪感というより、中央政権からみたときに怨霊のような、もっといえば、蝦夷という民族を「鬼」としてとらえていた、ということなのかな。反乱を討伐したというより、「退治する」「封印する」といった言葉の方が似つかわしく感じる。
鎖国気の江戸末期の人間が初めて欧米人を見て驚いた、無意味に恐れたのと似ているかもしれない。
体格が違う、話す言葉が違う、信じるものが違う、国(政治機構として)のあり方が違う、これだけ違えばまったく異質なものとしての「畏れ」というものがあったろうことは予測できなくはない。
それだけ中央政権と蝦夷との間には、民族的な隔たりを感じていたということなのだろう。

そして泰衡は、死に臨むに際し、これまで先祖が築き上げてきた国(奥州)という形式ではなく、蝦夷という民族を残すために戦う。この戦いは戦闘することではなく、自身が完璧なタイミングで死ぬことによって完成されるというもの。
ずっと大切にしてきた奥州という民族、国を奥州の頭領として、国というあっさり形式を捨ててしまい、民族を残すという決断。
きっと、戦う(戦闘する)という決断の方がずっと楽だったのではないか。
ここに泰衡という人間の真価が表れている。

まぁ、まずこんなにかっこいい藤原泰衡には初めて会ったのだ。

蛇足(ネタバレ)

「炎立つ」では最終的に泰衡は義経を殺さず逃がす(初めから殺す気がない)、という説をとっている。奥州の交易性と、本書における泰衡の性格から、北海道、中国へ渡っていく。義経=チンギス・ハーンの伝説に結びつけていく部分は、泰衡の爽やかさと義経の一本気さが発揮されていて、泰衡の死に様の悲しさの中に、そうならざるを得なかった必然性と、必然性が遂行される気分の良さがあった。

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