神仙と人間の感覚の違いと饕餮【王の厨房】

  • 書名:王の厨房 -僕僕先生 零-
  • 著者:仁木英之
  • 出版社:新潮文庫nex
  • 発売日:2016/6/28
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僕僕先生シリーズの生まれた頃の僕僕の姿を描く「僕僕先生 零」シリーズの2冊目。
黄帝、炎帝、西王母の三聖が作った世界に、アンバランスが起きている。黄帝と西王母がタッグを組み、炎帝の治める炎天との間に仙骨を持つものが抜けられない壁を作ってしまう。
その中で炎帝に「一」を探すように言われ旅に出る拠比と拠比の食事を用意する生まれたての僕僕の対。
僕僕先生が先生になる前のお話です。

饕餮

あなたの舌と腹は・・・・・・饕餮だ。

王に使える廚師剪吾のセリフ。このセリフが妙に記憶に残った。

饕餮(とうてつ、拼音: tāotiè)とは、中国神話の怪物。体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るの意である。何でも食べる猛獣、というイメージから転じて、魔を喰らう、という考えが生まれ、後代には魔除けの意味を持つようになった。一説によると、蚩尤の頭だとされる。
Wikipediaより

饕餮というワードを初めて見たのは『十二国記』だと思う。泰麒とのシーンで。
中国の神獣、妖の類だと、メジャーどころでは龍、麒麟、鳳凰なんかだと思う。それから、青竜、朱雀、玄武、白虎なんか。このあたりは幽遊白書かな。
白澤なんかは『鬼灯の冷徹』や『しゃばけ』にも出てきますね。
饕餮ってなかなかマニアックじゃないかと思う。
比喩で「饕餮」という表現を使いつつ、それが文脈上でニュアンスが通じるというか、饕餮の説明にもなっている感じ。
初めが十二国記の饕餮だから、もともと結構おっかないイメージがあった。

「とうてつ」と言われると、昔、十和田観光電鉄っていうのがあって、「とおてつ」って呼ばれてたなぁ、とか。
これはどうでもいい話。

貪欲ということ

廚師(料理人)としての僕僕は、料理をするのがほんとに楽しそうだ。
食べるということは生きることであり、食べられないということは死を意味する。
僕僕は剪吾を見たて料理をすることが楽しくなさそうだという。
義務化(指名化)した「王のための廚師」ということに必死の剪吾。
饕餮とは貪欲であることの現れであり、人間としての本性の一部であるのか。
それともそれは「一」に触れてしまったことよって生まれたものなのか、それとも増幅されたものなのか。
神仙によって生み出された人間であるならば、それは神仙の中にもあったものなのか。

妬みという感情とへりくだる神仙

神仙としての感覚が人間の感覚とは違い、また、この世界の人間世界が神仙によって作られたものであり後発のものであること。
よって神仙はまだマイノリティではなく、その感覚が当たり前であるという感覚。

力を減じられた拠比は、神仙よりの現状認識であり、徐々に人間の感覚を洞察できるようになってくる。
その中でも「妬み」という感覚が、神仙同士では初めから力関係がはっきりしているので起こりえないものであると拠比は感じている。
しかし、力を減じられた神仙にとって辺火王や剪吾がへりくだるだけの力を持った存在であり、力とは環境の中でしか発揮できないものである。
人間の祈りの力を目の当たりにしている拠比や、それを見ている我々には、力は神仙から人間へ、そして再び拠比つまり神仙のもとへ流れている構図に感じた。

神仙にとって、人間は祈りの力のみを提供するものであったはずが、個人及び集団の意思によって神仙にも影響を与えるようになっている。
そのことを不思議と感じるかもしれない拠比と、それはそういうものだと思う僕僕との間には目線の違いがあるのだろう。
僕僕にとっては神仙の世界も、人間の世界も、どちらも十分にしっているとは言えない世界であり、その中から吸収すべきことは吸収したいという欲求があり、それが目線の違いであるように思う。そんな僕僕に振り回され拠比も徐々に感化されている。

黄帝によって生み出された人間という存在は、黄帝やその周囲の神仙以上であったはずがなく、神仙をサポートする、もしくは神仙(を取り巻く世界)のために生み出された人間が、神仙にとって影響を与え始めていることは、黄帝にとって予定の範疇なのかどうか。

しおりはなかった

そういえば新潮文庫なのにこの本にはいつもの紐のしおりがついてなくて、ちょっとびっくりというか、あれっと思った。
あれ好きなんだけどな。変だなと思ったけど、新潮文庫じゃなくて新潮文庫nexなんですもんねって何となく納得。

僕僕先生本編のイラストは宮部みゆきさんの「桜ほうさら」のイラストを書かれた三木謙次さんだが『僕僕先生 零』はねこいたさんになっている。
登場人物や世界観も違うのでこちらから読んでもおもしろく読めるんじゃないかと思う。
※世界観が違うというのは、中国王朝が下っていった後の人間世界をメインにした本編とは違うという意味です。根は一緒だと思います。

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