末法の時代に仏はどこにいるのか【満つる月の如し 仏師・定朝】

  • 書名:満つる月の如し 仏師・定朝
  • 著者:澤田瞳子
  • 出版社:徳間文庫
  • 発売日:2014/10/3
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澤田瞳子さんの小説は初めて読んだ。
いつも行っている本屋さんに「若冲」が一番上にあって、装丁かっこいいってずっと思ってた。
文庫本しか買わないしばり中なので、「若冲」は文庫になるのを楽しみにすることにして今回は平安時代の仏師について書かれたという本書をチョイス。
この本は第32回新田次郎文学賞(2013年)を受賞されたそう。

天才仏師定朝は、その天賦の才にも関わらず造仏への疑問・煩悶がある。仏はどこにいるのか、自分の作る仏像には意味がないのではないか。叡山の若き僧侶隆範との出会い、藤原道長を中心とした当時の貴族社会の人々の人間関係と関わりながら、定朝の彫仏はいずれに行き着くのか。そんなあらすじ。

中宮彰子

前回「はなとゆめ」を読んだ時に持った感想として、平安時代、藤原道長の時代の政治状況はどうだったのか、という疑問を考えたことがあった。

「はなとゆめ」が一条天皇の中宮定子と清少納言の話だったが、本書は定子とともに一条天皇の中宮となった彰子が登場しており、時間としては「はなとゆめ」より少し後だということになるだろうか。
どちらの話にも藤原道長の政治力が大きく関わることになり、たまたま続けて本書を読むことができたことは幸運であった。
本書では中宮彰子の、その政治的影響力と道長への反発心がストーリーの背景に流れている。

末法の世相

当時の世相としては、天災・疫病が流行り、政治の中心である都においても路地路地に病人や遺体が転がっている状況だったという。
政治は貴族の、しかも血族同士の権力闘争の場となっており、他の国なら王朝が倒れる末期の状態に近かったのかもしれない。
こういった状況は中央から遠いところに勢力ができあがる、ということ起こりがちだがこの時はどうだったか?
この後、貴族政治から武家政治へ移行して行くわけだから、やはりその傾向があったのだろう。

考えてみれば、陰陽師が活躍し、百鬼夜行が通りを練り歩いた時代だ。
現世への絶望と浄土への憧憬が貴賤問わずあった時代であり、摂関政治の絶頂期であった時代だ。
仏教は哲学であり信仰であった時代、仏というものが現代よりもずっと身近なものだったのかもしれない。

主要な登場人物(一部)

定朝

若き仏師。造仏に天賦の才をもつ。家業として親の跡を継ぐこと自体を否定しているわけではなく、仏の存在を探し求め、造仏することの意義に深く悩む。

隆範

叡山の学僧。中関白家の傍流であり

藤原道雅

藤原道長に政争で破れた藤原伊周の子。彰子に育てられた。

中宮彰子

藤原道長の娘、一条天皇の中宮。父道長の権勢のためのやり方に不満を持ち、中関白家の人々にたいして援助がある。

敦明親王

一条天皇と中宮定子の子。立太子されたが道長の意向を組み廃太子され小一条院として遇される。

小式部内侍

和泉式部の娘で中宮彰子に仕える。母同様宮中に浮き名を流す。中務の親友。

中務

小式部内侍の親友。中宮彰子の女房。敦明親王の幼なじみ。

小諾

中宮彰子の女房。

甘楽丸

比叡山の色稚児。

滝緒

隆範の牛車を引く牛飼い。

登場人物の持つ想い

登場人物たちはそれぞれが生い立ちを含めしがらみを持っていて、それぞれが他の人間や状況に対し悩みを持っている。
定朝は仏を彫ることの意味を問い続け、隆範は定朝の仏像に仏を見出し、定朝の仏像を多くの人に見てもらう(仏を伝える)ために働くことを誓う。その中で衆生に仏を教える身でありながら身分のフィルターに捕われていた自分を発見し苦悶する。

敦明親王は道長に天皇への道を阻まれ鬱屈した日々を過ごす。
中宮彰子は強引に己の権力を増大させて行く父道長に対する反発があり、それは道長の政敵だった中関白家の人々への思慮として発揮される。
彰子に仕える奔放な小式部内侍とまじめな中務は対称的な正確ながら幼い頃からの親友である。
中務は幼い頃の優しかったの現在の行いに心を痛めており、敦明親王へ向かう中務の心情を小式部内侍は心配している。

小諾は家族関係から定朝の仏像を拝むことを心のよりどころとし、色稚児として叡山に仕える甘楽丸には複雑な想いや達観がある。

この世は地獄か

この世に仏はいるのか?仏がいるとしたらなぜ貧困や疫病に苦しむ人たちが大勢いるのか。
仏の形をした像には仏がいないという疑問。
仏像を見て仏を信ずる人たちに対して仏像をつくるという意義を甘楽丸に諭される定朝。
それからは己の彫る仏像の中に仏をあらわすことができず苦慮する。

「地獄だ。」定朝はよくこのセリフを言う。
権力争いから抜け出せない貴族、日々の生活におびえざるを得ない庶民、仏を探し求め続ける自分。
どのような仏像の中に仏は宿るのか。

中務の死に顔の中に全ての慈相を見出し、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を彫りあげた定朝はそれを一番求めていた隆範にこの阿弥陀如来を見てもらいたいと願う。

誰から始まり誰で終わるのか

もちろん主人公定朝から始まり定朝で終わるとも言えるし、滝緒が始まりで終わりかもしれない。もしかすると小諾が始まりで終わりとも読める。
登場人物が全てキーとなっていて、全ての伏線がきれいに収束していく気持ちよさのような読後感があった。
それだけまとまった小説だったように思う。

特にこの時代はわからないことが多く、仏像、仏教等には知識がないがとても楽しく読めた。定朝という未知の人物に知り合うことができたのは大きな収穫だった。次は「日輪の賦」いってみようかなぁ。

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