オルタナティヴ・エゴついて考えてみた【ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆】

  • 書名:ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆
  • 著者:上遠野浩平
  • 出版社:電撃文庫
  • 発売日:2016/3/10
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オルタナティヴ・エゴとは何か

凪と末間の会話の中で、末間が解説してくれているので引用する。

我を張るくせに、そこには自分が何にもないのよ。

オルタナティヴ・エゴは、誰でもいい自分、というべきもの。それは縄張り意識だけがとても強くて、内面の充実をほとんど考慮しないーーそして何よりも、嘘つき

気にするのは如何に責任を逃れるか、破綻を避けるかということだけで、自分が何かを生み出したいとか、達成したいという夢がない。そういう形でのエゴーー意思なき傲慢。無思考の厚顔無恥。それがオルタナティヴ・エゴ。目的が単なる言い訳になっている・・・・・・卑怯者の自己正当化よ

ここではオルタナティヴ・エゴが、かなり強い口調で否定的に捉えられている。
末間はエゴそのものは、人間の意思として必要なものであるという。
とすれば、オルタナティヴ・エゴはエゴの中の一種であり、エゴの中でもネガティブなものということか。
オルタナティヴに似た言葉として「アルター(もう一人の自分)」との比較をしているか、末間の言い方からすると、このアルターエゴは自己本来の人格に対する、他の人格と考えていいのかな。
末間は凪のエゴは理不尽と戦うため、自分自身に対する誇りとして機能しているという。ネガティブに対するポジティブエゴだと言っている。

つまりオルタナティヴ・エゴとは、自分自身で考えていると思っているつもりになっている、もしくは思い込み、といった側面を多分にもっているものと考えられる。
何か他人の考えや概念を自分の中に置き換えている状態を、自分自身では気がつくことなく自身の意思として考えているから、中身がない、無目的ということか。
自身にロジック的な正当性を確立できていないので、問題に直面した際につじつまが合わなくなるって破綻するすることが多い。そんな感じかな。

オルタナティヴ・エゴは誰が判断するのか

先ほどの会話の中で、凪のエゴはオルタナティヴ・エゴではないと、「末間は」判断している。
オルタナティヴ・エゴを上述したようなものと考えると、本人が自身がオルタナティヴ・エゴに陥っているという判断をすることっていうのは、すごく難しくないか?
なにせ、それは自分自身ではつじつまが合っているように見えていて、別な言葉に置き換えれば「信念」めいたものになっているかもしれないから。
※この「信念」という言葉はあまり好きじゃない。誰だって自分自身の正義や理屈があるだろうし、ひとつの物事に対して幾通りもの答えがあることを否定しかねないから。

とすれば、その人の考え方がオルタナティヴ・エゴに陥っていると判断することができるのは第3者でなくては難しい。織機綺は自身の中でのスプーキーE(彼が自身の幻想であるという自覚がある)との会話の中において、オルタナティヴ・エゴに陥るだろう自分を想像している。以下、引用。

そして迷っている自分は自分以外の何かに頼ってしまう

オルタナティヴ・エゴに、か?

自分で考えたと思っているのに、いつの間にか別の何かのせいにしているんだわ、きっとーー

このように自覚症状が現れることのほうがレアケースなのではないだろうか。
織機綺は過去の経験から、オルタナティヴ・エゴに陥り易い状況と自身の思考の傾向を把握したと考えられる。その思考を導くためにスプーキーEでありカミールでありが登場してくる。

自分の中にスプーキーEを登場させることができる人間がどれほどいるのか。(彼に登場されたいかどうかはさておき)
だから、自分がオルタナティヴ・エゴに陥って「いた」ことを把握するときは、いろいろもうつじつまが合わなくなってしまったあとで、結構手遅れになっていることが多いんじゃないかと思う。

オルタナティヴ・エゴは避けうるのか

ここで末間の言葉に戻る。再掲。

気にするのは如何に責任を逃れるか、破綻を避けるかということだけで、自分が何かを生み出したいとか、達成したいという夢がない。

つまり、そもそもオルタナティヴ・エゴはいかにつじつまを合わせるかを目的化しているのであって、問題が顕在化するまではおそらくポジティブエゴとなかなか見分けがつきにくいのではないだろうか?
ところが人間をやってるとこの自分の中の「つじつまを合わせる」という考え方が結構大事なもので、これができないと一方的な自己否定に繋がっていくことになる。
自己による脱却、もしくは未然の回避以外で、オルタナティヴ・エゴが破綻する場合は、自己否定ではなくて他からの否定であり、オルタナティヴ・エゴに支配されている場合、それは他者からの人格否定されたと感じると思う。
そこで起こるのは、否定を再否定するか、それまで信じてきたエゴ(自身の人格と感じていたものとそれを継続してきた時間)を否定するか、新たに信じるものを手に入れるか、そんなところではないか。
これ、被害が大きいなぁ。

では危険なオルタナティヴ・エゴに陥らない方法があるのか。
正直いって、いまいち見つけられなかった。
前述の通り、自身のエゴがポジティブエゴであるのか、オルタナティヴ・エゴであるのかの判断がおそろしく難しいだろうから。オルタナティヴ・エゴに陥っている人間はそれをポジティブエゴだと感じているだろうから。発見することが難しくて、やっぱり発見したときには手遅れ。
そうすると、「オルタナティヴ・エゴは世界を潰す」の世界は、何の世界か?まかり間違うと、自分の内面世界だったりしないだろうか。

ここまでやってきたけど、じゃあ自分が今オルタナティヴ・エゴに陥っていないかどうか、考えるのはあんまりお勧めしない。
陥っている気もするし、それを否定できる材料もないし、とするとこれまでやってきた自分ってなんだろう、って気分になる(苦笑)あんまり精神的に健全ではないかもしれない。
教訓めいたことは嫌いだけど、じゃあどうしようかっていうと、自分の行動が人の迷惑にならないように、独善になっていないか疑うこと、自分のエゴを前向きに進化させていくことができる余地を持っておくこと、そんな感じになるのかなぁ。前向きの前がどっちあよくわからなくなるのが問題な気もするし、独善とオルタナティヴ・エゴとはイコールではない気がするし。
そもそもオルタナティヴ・エゴに対するアンチテーゼがなんなのか、オルタナティヴ・エゴ自体が何かに対するアンチテーゼたり得ているのか、だんだんわけがわからなくなってきた。
こんな感じで堂々巡りをしてさっぱり考えが前に進みません。結論もない終わりですいません。

全然関係ないけど、上遠野浩平さんのあとがきが、すごく好きなんで、前にも書いた気がするけど、あとがき集みたいのつくってもらえんかなぁ。
あと、霧間誠一の語録集みたいのとか。Twitter botはたくさんありそうだけど。
一時ニーチェが流行ったんだから霧間誠一が流行ってもおもしろいと思うけどな。と、つれづれ。

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