なにのために戦うのか、アッテンボロー提督のセリフとともに【誉れの赤】

  • 書名:誉れの赤
  • 著者:吉川永青
  • 出版社:講談社文庫
  • 発売日:2016/6/15
Amazonで見る

あらすじのようなもの(ネタバレ注意)

最強と呼ばれた山縣昌景の武田家「赤備え」。
この赤備えに同心として所属する成島勘五郎と飯沼藤太は幼なじみ。
もともと藤太は成島家で下人の働きをしていた農民の息子。
身分は違えど「五郎やん」「藤太」と呼び合う仲。
武士であるが故に村の農民の子どもにいじめられる勘五郎は、藤太の強さに憧れ、助けられる。

やがて大人になった2人は藤太も武士に取り立てられ、孕石備前の配下として働く。
赤備えに配属され、天下取りの一番槍として最強である赤備えであることを2人は誇りに感じる。
最強の赤備えを持つ武田家は長篠の合戦に敗れ、2人は徳川家に使えることとなる。

徳川家康は「赤鬼」井伊直政をもって赤備えを復活させる。
妻を娶り徳川家の家臣としてなじんでいく勘五郎は、石川数正の出奔を機に直政の逆鱗に降れ、それをかばう藤太とともに直政から暴行される。
その後2人は袂を分かち、藤太は帰農することを選ぶ。
豊臣と徳川の天下統一の戦いの中で、最後は天下分け目の関ヶ原、2人はどうなっていくのか。

2人にとっての赤備えとは

勘五郎は「強さ」を求める。藤太はそれを後から支え続ける。
2人が袂を分かつことになったのは、井伊直政への見方の相違からだった。
直政の下ではやっていけないと出奔する藤太とそれでも赤備えに「いる」ことに拘りのある勘五郎。
勘五郎には家族があり生活があり、藤太には帰る故郷に家族があり農民に戻るという選択肢があり、そういう条件の違いはあったろう。
それ以上に大きかったのは、「何のために」の部分だろう。

藤太には山縣昌景や石川数正に名前を覚えていてもらったという思いがあり、山縣のため石川のためになら戦えるという気持ちがあった。
対して勘五郎にとっては最強の「赤備え」でいることが「強さ」の証であるという思いがあった。
その中で井伊直政を山縣や石川と比較して見た時に、武将としての振る舞いに欠け人としての優しさ大きさにおいて劣るという判断、そのことが藤太には耐えられなかったに違いない。

「人間は主義だの思想だののためには戦わないんだよ!
主義や思想を体現した人のために戦うんだ。革命のために戦うのではなくて、革命家のために戦うんだ」

『銀河英雄伝説』(田中芳樹著)でヤンが死んだ時にアッテンボロー提督が言ったセリフ。
藤太の心境としてはこれに近いものがあったのではないか。

勘五郎の憂鬱

勘五郎は直政から自分に嘘があると指摘されるが自分では気づくことができない。それは勘五郎を武田時代から見続けている孕石や、望んで自分のもとへ嫁いできた芳にも気がついていることだった。
赤備えが「何のために」あるか?
その存在意義が自分の存在意義と直線になったとき、勘五郎は自分の思いに気がつく。

レビューなどを見ると、今時分が置かれている会社や組織の中の自分の立場と感情に重ね合わせて読まれてる方も多いみたい。
確かに組織の中の個人としての葛藤や目標設定、モチベーションの維持みたいなところでは共通なところがあるかもしれない。

学生時分部活で勝ち負けのあるスポーツをしていた。
仲の良かった先輩や後輩のために勝ちたいと思ったこともあった。
建前では、部活だから、そういうものだから、勝たなくてはいけないみたいなお題目はあったけれど。
人は何のために戦うのか?建前とかお題目のために一生懸命になったことはなかったな。
案外、もっとくだらない(他人からみればね)ことの方が一生懸命になれたりして。
ちょっとそんなことを思い出した。

戯史三國志シリーズ

著者の吉川永青さんを初めて読んだのは『戯史三國志 我が糸は誰を操る』だった。
三国志ものなんだけど、陳宮が主人公という作品。このあと戯史三國志シリーズは、程普を主人公にした『戯史三國志 我が槍は覇道の翼』、廖化が主人公『戯史三國志 我が土は何を育む』と続く。
三国志ものはきっと相当数あると思うけど、この人選に野望を感じた。
本書の最後にはこれまでの著者の作品の本人による紹介が載っている。
『戯史三國志 我が土は何を育む』と本書は吉川英治文学新人賞候補になった作品。
吉川作品をこれから読もうという方には、本書はお買得かもしれない。

広告
広告

この投稿へのコメント

コメントはありません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

この投稿へのトラックバック

トラックバックはありません。

トラックバック URL