勝ち続けた阿弖流為にifを考える【火怨 北の燿星アテルイ】

  • 書名:火怨 北の燿星アテルイ
  • 著者:高橋克彦
  • 出版社:講談社文庫
  • 発売日:2002/10/16
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上下巻の2冊。「炎立つ」「天を衝く」と合わせて高橋克彦「陸奥三部作」と呼ばれるものの真ん中、時代は3つの中で一番古い。
登場人物(名前だけだが)に桓武天皇がおり、桓武天皇が平安京への遷都をしようすることが物語のひとつの伏線となっているので、日本史に沿って行けば「鳴くようぐいす平安京」の794年前後、これから平安時代になるというあたりの物語である。

本作の主人公阿弖流爲(アテルイ)は「炎立つ」の中でも、アラハバキの神への祈りの中で姿を見せている。
ストーリーとしては坂上田村麻呂の蝦夷征伐を阿弖流為を主人公に蝦夷の視点から描いている。

大和政権から見ると金・銀山のある陸奥は支配したい地域であり、また桓武天皇の平安遷都の希望にあたり軍事的成功を庶民にみせる必要があった。
蝦夷の側からは、人間としてではなく被支配者、獣同然の扱いを受ける屈辱と、自分たちのテリトリーに対する軍事的な圧力をはねのけるための戦いとなる。

胆沢の阿弖流為、黒石の母礼、江刺の伊佐西古の若き長たちが、伊治鮮麻呂が大和政権の陸奥国按察使紀広純を殺害する(宝亀の乱)に合わせ決起する。阿弖流為たちは鉱山経営と交易によって経済力を持つ物部氏を背景に、各地域から兵士を集め戦闘のための集団を作り上げる。
東北地方は昔からの馬産地であり、蝦夷の馬を集め大規模な騎兵部隊を作ることができ、兵数では劣る蝦夷にとっては騎兵の総数が大きな戦力となる。
集落・地域単位で部族的な生活をしていただろう蝦夷において、出身に関わらず戦闘用の兵集団をもつということは画期的なことだったのではないだろうか。
基本的に軍事集団は非生産的であり大量消費集団であり、それを維持することは大きな負担となるが、その負担に物部氏があたることでこの蝦夷・物部連合は成立している。

母礼はナルサスとなるか

阿弖流為がリーダー(軍事的指導者)、母礼は軍師、熱血漢の伊佐西古が副将格、その他飛良手以下の阿弖流為旗下の武将や各部族の長たちからなる蝦夷軍。
兵力差は隔絶しており、基本的な戦略は地の利と騎馬隊の攻撃力によって数の少なさをカバーする戦いとなる。
その運用を考えるのが軍師たる母礼。

序盤は特に母礼が全ての戦略を立てるが、相手の思考パターンを読み、思考を誘導し、連戦連勝を成し遂げる。
もうやることなすこと大当たり、アルスラーン戦記のナルサス状態。
山に砦を築いて防戦するあたり、宮城谷昌光さんの「楽毅」の中での中山国最後の戦い、呼沱での戦闘もかくやと思わせる。ただし大和政権は趙与たり得る坂上田村麻呂を主将にすえることはなかった。

兵法の基本は、相手より兵力を集め、兵站を全うし、運用するの常道をとることのできない蝦夷軍の、母礼の戦略と士気の高さ、阿弖流為の求心力や騎馬隊の威力によって勝ち続ける。
ただしこの勝利は攻め込まれたものを撃退することであり、相手を屈服させる戦いではなく攻められれば撃退するを繰り返す、鮮麻呂のいうように50年を覚悟する戦いとなる。

東北と鉱山

東北地方には多数の優良な鉱山があった。
この時期、大陸から渡ってきた仏教の影響による大仏建立や貨幣としての利用で、金・銀などの価値が上がったらしい。
仏教の流入や貨幣文化の入るのが遅い東北地方にすむ蝦夷とってはそれらの価値が高いものではなかったところが、また悲劇的なところがある。
それに対して、大和政権は武力をもってとりにいくことになり、そのため当地区にすむ蝦夷たちを労働力としても制圧する対象にしてしまったことが、蝦夷にたいする征伐の根幹にあったという。

阿弖流為の時代に限らず、東北地方には鉱山が多い。
尾去沢鉱山、玉山金山、尾太鉱山、松尾鉱山など、現在でも名前の知られた鉱山がある。(※一部は閉山後廃墟めぐりや地域の活性化に一役買っているようだ)
本書ではこれらの鉱山を支配し、交易によって財を築いていたのが物部氏ということになっている。物部氏はアラハバキの神を信仰し、本書では蝦夷の起源を出雲とし物部氏と近しい関係にあるとする。また、物部と蝦夷が大和政権に迫害された共通性があり、これが連合の元となっているとする。

坂上田村麻呂登場

阿弖流為のライバルとなる坂上田村麻呂はシリーズ後半から登場。
阿弖流為たちとは都であっていて旧知の仲という設定になっている。
田村麻呂は自分の武勇を誇らない。部下に自分よりも強いものがいればそのことを正直にいう好人物。
部下からの信頼も厚く、将としてリーダーとしてうってつけであり、何より蝦夷に対する偏見をもたず、蝦夷の驚異は武力で解決することは難しいと考えているが、征夷大将軍に任じられれば、職責上征伐せざるを得ない立場であり、蝦夷に対する偏見がなくその勢力を正しく評価しているため、征伐にも万全を期そうとする。
阿弖流為たちへは個人的な恨みはなく認め合った中であり、戦場でまみえるは武人の勤めとばかり。

阿弖流為の降伏

それでも阿弖流為たちは負けなかった。というか、作中一度も田村麻呂は阿弖流為に勝っていない。
しかし戦い続ける中で、阿弖流為の中に疑問が生じる。自分たちの始めた戦いを子どもの世代に引き継いで良いのか。
悩みぬいた阿弖流為は最後の戦いに身を投じることにする。
それは、相手が信頼できる田村麻呂だったからこそできる戦いであり、戦略の通り田村麻呂たちが勝つ(ように見える)ように展開を進める。
阿弖流為たちが蝦夷の中で孤立したように見せ、反阿弖流為派を大和政権側に取り込ませていくことで、大和VS蝦夷ではなく大和VS阿弖流為の構図を描き出す。
大局的には大和政権が勝ったように見え、当事者間では田村麻呂は阿弖流為に負けたと感じる。
結果として大和政権に対し、蝦夷は降伏ではなく和議に近い形で終わりを迎えるが、首謀者たる阿弖流為と母礼だけは都に送られ裁判となる。
田村麻呂の嘆願にも関わらず、阿弖流為と母礼は蝦夷の鬼として地中に埋められ鋸引によって処刑される。

田村麻呂に出逢う前、都に登った際に、仏像に踏みつけられた鬼が蝦夷のことであると言われ、伊佐西古がいう。自分たちが何をしたのか、同じ人間として見られてはいないではないかと。
阿弖流為と母礼の首を前に田村麻呂は同時期を生きた人間として、2人に酒を献じ弔う。

朝廷と蝦夷で言葉が通じるのか。

これは本書を読んでのまずの疑問。
現在の東北、例えば青森の津軽弁と東京の人が本気で方言を使って話した場合、相手の言葉を聞き取るのはなかなか難しいと思う。
東北出身の人たちが言葉の壁にぶつかり、コンプレックスを感じたという時代はそれほど昔のことではない。
現代ではテレビやラジオによって標準語と呼ばれるものや他の地域の方言を聞くことのできる機会が増え、わからないなりにも段々わかってくるようになることができる。
実際に僕自身、標準語は周りの大人ではなくてテレビやラジオから覚えたように思う。
同じ地域内で生きていくには方言しか知らなくても問題ないし、標準語を覚える必要性が全くなかった。
現在の方言は、単語の違いは減ってきていて(使われなくなってきていて)、イントネーションがその方言としてイメージされることが多いかもしれない。

これがテレビもラジオない時代に、蝦夷と中央で簡単に同じ言葉で意思疎通ができたのだろうか。
なかば地続きの外国のようなものであり、通訳がなければ難しかったのではないだろうか。
逆説的に、言葉の通じない異国人として、「鬼」という言葉による規定がされた部分があるのではないかと思う。

国家として成立したか

もし、阿弖流為たちが降伏を選択せず戦い続けることを選択したとしたら、蝦夷は国家として成立したのだろうか?
このifは多くのひとが考えたことだろうけど、ちょっと考えてみよう。

国家体制

これはきっと各地域の部族長たちによる連合国家になるのではないか?部族間の優劣はあれど、他地域を支配的に扱うようなことではそもそも阿弖流為たちの戦いが成立しない。
軍事面では物語の時点で独立したものを持つことができているが、官僚制度に当たるものや徴税の仕組みを作りだすことができたかどうか。
大和政権の情報は入ってくるし、物部氏などは大陸との交易があったようだから、それを参考に制度を作りあげることはできたかもしれない。

気候的に

これは厳しい。東北地方はどうしても雪の問題を抱える。
現代の様な移動手段がないこの時代では、雪に閉ざされると移動自体が困難となる。
国家として考えたときに、流通の面で不利だ。
また、太平洋側は夏のやませによる冷害が起こる地域。食料面でも増産の難しい地域である。
故に人口をあまり増やすわけには行かなくなるのではないだろうか。
人口イコール国力とすれば、国家が成立しても発展していくには、自国外との交流が必要不可欠となる。

ただし、冬期間の降雪はデメリットのみではなく、とくに南側からの敵(大和政権)に対しては大きな障壁となり得る。

経済圏(地域的に)

経済圏(防衛圏を含めて)を考えると、出羽の蝦夷も取り込みたいところだ。
交易が海路で行われるとすると、日本海側の航路を支配できるかどうか死活問題となる。
特に大陸との独自の交易を考えると、出羽の辺りをとられると青森県西部の湊のみとなり、防衛線としてもここをとられた場合に南北から挟撃されかねない。
そのため、日本海側の海岸線を長く確保しておきたい。
出羽や陸奥南部を押えることができれば、北部は自由地帯となり、農業、鉱業、貿易の拠点を作ることができる。
また交易の相手として雄島(北海道)も候補であり、経済的には大和政権にも太刀打ちできるもの規模になれたのではないだろうか。

以上を考えると、国家としての蝦夷は成立しうるように見える。
あとは当人たちが大連合しつづけることの必要性を感じるか、部族間での摩擦を抑えることができるかどうかだろう。
また、国家としてはやはり成文法が必要だろうし、文字文化が必要にもなるだろう。
それは大和政権のようなものを使うのか、大陸からきたものを使うか、それとも独自の文字を生み出すのか。
そんなことを考えると、子産が成文法を民衆に知らしめたということが、これより1,000年近く前だということを考えると、当時の大陸の先進性とはほんとに凄かったのだと感じる。

坂上田村麻呂とねぶた

青森市のねぶた祭りには坂上田村麻呂の蝦夷征伐が起源だと言われていたことがある。
これに関しては比較的最近まで言われていたのじゃないだろうか?

以前、起源としてよく知られていたのはのちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために大燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし坂上田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流で、現在の形式のねぶた祭りの発祥は浅虫ねぶたとされている。一方で、田村麻呂の側近である文室綿麻呂は史実の上で青森県まで達した可能性が高く、また青森ねぶたのみ、他の地域のねぶた・ねぷたと大きく異なる、日本の伝統音楽には他に類を見ないほどの勇壮な囃子であることから、蝦夷征伐説の可能性もなお否定できない。青森市内には妙見の大星神社(征伐軍の戦勝祈願)・幸畑地区熊野神社(蝦夷の砦「甲田丸」跡)・沢山地区の稲荷社(蝦夷トンケイ没所)等、蝦夷征伐を伝える痕跡が残っている。
Wikipedia「青森ねぶた」より引用

自分が子どものころは田村麿賞はまだあったように記憶している。

阿弖流為の評価

阿弖流為は死後文献などから姿を消したらしいが、歌舞伎になったり、本書のように小説になったりしている。
また奥州市のみずさわ観光物産センターは「Zプラザアテルイ」と阿弖流為の名を冠しており、奥州藤原氏とともに観光資源ともなりうる。
このような扱いを受ける阿弖流為には、その歴史や人物像にそれだけの魅力を感じる人がたくさんいるということなのじゃないだろうか。

最近自分のルーツについて考えることがある。
間違いなく自分のルーツは東北にあり、そのことは東北の外で暮らすようになってから強く感じる。
自分の中に阿弖流為の血が流れているのか、それともまったく別のものが流れているのかわからないが、自分のルーツとしてこれからも東北に関心を持ち続けたいなぁと思っている。

下巻はこちら

参考サイト

「炎立つ」について書いた記事はこちら

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