恩田木工に沙中の回廊を重ねてみる【真田騒動―恩田木工】

  • 書名:真田騒動―恩田木工
  • 著者:池波正太郎
  • 出版社:新潮社
  • 発売日:1984/9/27
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真田丸が流行っているらしい。
なんせTVを持たない生活をして10年以上になるから、よくわからないのだけど。

僕にとって2015年は池波正太郎元年だった。剣客商売鬼平犯科帳をまとめて読んだ。
これまで読んでこなかったのには訳があって、ひとつは実家に帰れば確実に亡くなった祖父のものがあるだろうこと。もうひとつはシリーズが多すぎてお金がw
お金の問題は解決してないけど、実家に帰るのも年に1度2度しかないし、祖父の本は祖母が整理していってどこに何があるかわからなくなっているから、ついつい剣客商売の1冊目に手を出したのが運のつき。
きっと今年は「仕掛人・藤枝梅安」を読むのでしょう。

真田丸が流行っているこのタイミングで「真田騒動―恩田木工」を読んだわけだけど、流行に乗っかれたわけじゃなくて、こっちのそういう流れ。
決定的に後押しされたのはTwitterで「真田太平記の主人公は真田信之」だってことを教えてもらったから。
幸村じゃないんだね、と。

で、真田太平記を読みたいけど、刊行順で考えると前に恩田木工読みたいよなぁ、と。そういうわけです。

「真田騒動―恩田木工」は短編集。真田家に関わる短編が5本収録されている。
今回はその中でもタイトルになってる恩田木工の編に関して。

恩田木工

まずは恩田木工という人物についてWikipediaから引用。

恩田民親
恩田 民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) – 宝暦12年1月6日(1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老。百官名は木工。恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)として知られる。
宝暦2年(1752年)信安の死により藩主となった真田幸弘により、宝暦7年(1757年)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任された。藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたにとどまったが、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。また、宝暦8年(1758年)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。
Wikipedia「恩田民親」より

恩田木工は真田幸弘に破綻しかかっている藩政・藩財政の改革を期待されるが、信安時代の2代(原八郎五郎・田村半右衛門)続いた悪政の悪かった部分を改めていくことで改革していく。
さてここで悪政と言ってしまった二人の人物のシーンで記憶に残ったとこをあげる。

田村半右衛門

田村半右衛門は播州赤穂の浪人で、一説には忠臣蔵の悪役大野知房の子とも言われ、もともとあまりよく思われていなったようだが(本書でもそのように書かれる)、藩主信安に認められ藩政改革を期待され国許へ送られる。
どうでもいいが、半右衛門の倹約の方法を説明するくだりは、銀河英雄伝説(田中芳樹著)のドーソン大将「ジャガイモ仕官」の逸話を思い出した。

さて、そんな半右衛門が国許で命じた際に言ったのがこのシーン。引用する。

殿様御手許が苦しければ、年貢や御用金を余分に差し出すのは当り前のことではないか。われらもそのほうたち苦労は充分に察しておるのだ。だからの、われらの申し付けたもの差し出した者は、賭博はもとより盗みを働いても差し支えないのじゃ。ここのところをよく考えてみい。

余りうまくない冗談といわれているが、半右衛門本人としては、あくまで冗談のつもり。冗談として受け取ってもらえるだろうという見込みで話している。
ところが藩政に対して、散々失望と裏切られた感と不信感のある農民たちの間の関係は、このような冗談の通じる関係ではなかった。
山上条村の肝煎九朗兵衛の嘆願書の中で、次のように言われてしまっている。

博打や盗みをはたらいてもよいから、今度の半右衛門が発令した無理難題の年貢取立てを完遂せよとまで言われては、領内の百姓どもは、とても立ち行かなくなる。禁令の犯罪を犯してまで年貢を出せなどといわれては我々も承知できない。

無論、半右衛門だって、年貢を納めるためなら盗みやらの悪事をしても良い、そうすべきだとは思っていなかっただろう。ものの例えとして、それこそあくまで冗談のつもりで言ったのだ。
他国人としては、藩政と農民との関係がここまで冷え切っていたことは想像の外だったのかもしれない。
しかし、言ってはいけないときに、言ってはいけないことを言ってしまったものだ。
冗談もいえないような関係性の間柄で、場を和ませようとする冗談は、返って馬鹿にされている気分になったりするものだ。

このシーンが、実は結構記憶に残っていて、言って失敗した荀林父の例を思い出したのだ。
単純に比較するには、ちょっと荀林父に申し訳ない感じもするが、邲の戦いにおいて、自分の出した命令によって、「舟中の指掬す可し」という惨状を招き楚に大敗を喫した荀林父と、言ってはいけないときに、言ってはいけないことを言った、という点においてのみ、似ていると感じた気がする。

ちなみに邲の戦いのあたりのことは、沙中の回廊(宮城谷昌光著)を読まれることをお勧めする。宮城谷先生は「舟中の指掬す可し」という表現を、史記の中でも屈指の表現であるとおっしゃっている。

荀林父は邲の戦いの後、身を慎み周りが見えるようになったのか、為政者として最終的には国の威信を回復することができたが、半右衛門は失敗したまま復権のチャンスはなかった。

原八郎五郎

この人物はこの短編における、恩田木工のライバルというか、主人公と対比されるべき人物として序盤から登場している。
既存勢力の圧力に負けず、藩政改革を断行し木工からも一目置かれていた八郎五郎は、藩主からの寵愛に狎れ、権力者として次第に堕落していく。

八郎五郎が権力者として地位から落とされる過程がこの短編の前半部分となるが、短編最後のシーンでもう一度登場する八郎五郎と木工のシーンもかっこよかったのであげておく。こちらも引用する。

罪を許され、二十人扶持を与えられて城外を二十町ほどはなれた清野村の民家へ隠居ということになったのは宝暦七年の三月である。

ようやく罪を許された八郎五郎の元を、藩政改革を藩の先頭に立ち行っている木工が、巡察の間に訪れるシーンである。八郎五郎は零落した身ながら、堂々とした態度で隠居生活を送っている。
八郎五郎の妻女は江戸の遊女あがりであるが、遊女あがりとは感じさせない態度を見せている。この感じも沙中の回廊(宮城谷昌光著)の中の、野に下った郤缺が胥臣に見出されるシーンを思い出させた。我ながらこじつけだと思うが。
いろいろあった二人の、そして同時代を共有した木工と八郎五郎の別れの場面。

「またおはこび願いたいのですが・・・・・・」
「お邪魔でなければ・・・・・・」
「お待ちいたす。原、お待ちいたしております」

二度、待っていると告げる八郎五郎に、同時代を生きた男二人の共通した感傷が感じられる。悪役として登場した八郎五郎が改心したからといった勧善懲悪的なスカッと感ではなくて、片や栄光から挫折へ、片や雌伏から飛翔へと進んだ男たちの同時代を生きたという実感が心地よい。

その他の収録作品

  • 信濃大名記
  • 碁盤の首
  • 錯乱(直木賞受賞作)
  • その父その子
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