「晏子」の晏嬰と藤原清衡を比較して失敗した話【炎立つ】

  • 書名:炎立つ
  • 著者:高橋克彦
  • 出版社:講談社文庫

「炎立つ」4巻まで読了。
1~3巻までの主人公は藤原清経だった。
4巻の主人公は清経の子、清衡である。Wikipediaには奥州藤原氏の祖と書かれる人物である。

小説の世界を始点としてしか歴史を勉強しない僕には、歴史上の知らない時代、知らない地域、知らない人物がたくさんいる。
父親の清経も知らなかったし、子の清衡のことも知らなかった。
奥州藤原といえば、子供の頃に祖父母に連れられて中尊寺にいったことがあること、源義経を匿って最後は滅びる一族、といった印象しかなかった。

清衡に関しては3巻までの間に、主人公になる前に、清丸という幼名のうちに、後々主人公になるべく運命付けられた神託が下されている。
だから、清丸がどのように主人公となっていくのか、何をした人であったのか、未知の世界、或いは無知の世界ゆえの楽しみがあった。

この清衡という人物、父清経に比べ、比較的活躍が地味である。
戦闘シーンなどは、清経の方が華々しい。周りに安部貞任や源頼義・義家などキャラクターの濃いのが多かった、ネームバリューが大きかった人たちに囲まれていたこともあるのかもしれない。
この先祖から書き始め、主人公が子孫に変わっていくパターンはどこかで見たことがあるなと思ったけれど、宮城谷昌光さんの「晏子」の晏弱・晏嬰親子や、「風は山河より」の菅沼定則から定盈までを描いたのに似ている。
無論子は父と違う人物であり、違う時代、条件を生きていくわけだから、おのずと父親とは違う生き方、人格を持っていくものなのかもしれないし、そのように読者に読ませていくのが、小説家の方の腕なのかもしれない。

「晏子」の晏弱は戦闘はじめとしたアドベンチャー的要素、晏嬰が政治的駆け引き(駆け引きというか人としての信念)といった表面的な静の部分をに担っているのだけれど、清経と清衡も無理やり、本当に無理やり当てはめるとそんな感じもあるのかなぁ。(無理やりすぎて当てはめる意味があるんだかないんだか…)
晏嬰は自分の考えを状況の中において貫き通すし、清衡は我慢に我慢を重ねることが清衡らしさなのかもしれないし、やっぱり比較に無理があったなぁ。
ちなみにはじめはとっても晏弱が好きでしたが、再読をしてるうちに晏嬰も好きになります。

で、何でこんなこと書き始めたっていうと、高橋克彦さんが4巻の後書きの冒頭で、

資料をいくら読んでも清衡という人間の本質が見えてこなかったのだ

といきなり仰っていてびっくりしたから。3巻までの清丸ファン(歴史上の清衡ファンというより、小説の登場人物として)として4巻を読んで、ほぉ清衡ってそういう人かぁ、って思ったあとの後書きだったから。

たしかに清衡という人が行動を起こしたシーンって少ないのかもしれない。
4巻の雪の沼の柵のシーンとか、すごいけどね。
実際に雪を知ってる人が書いたんだと思った。
清衡という人は押さえつけられっぱなしで、最終的に気がついたら奥州とってるんだよなぁ。
晏嬰と一緒で、再読したときに清衡とは違った良さがわかって好きになる気もする。という4巻読んでの感想。

はじめからここまでずっと豪傑だった義家も、最後が爽やかな感じですきだなぁ。

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