「殿、利息でござる!」の原作読んだ【無私の日本人】

  • 書名:無私の日本人
  • 著者:磯田道史
  • 出版社:文春文庫
  • 発売日:2015/6/10
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2016年に阿部サダヲさん主演の映画「殿、利息でござる! 」が公開されることを知って、原作を読みたくなった。この映画はフィギュアスケートの羽生結弦さんが出演されたことでも話題ですね。

この本は小説なのかな?著者の磯田道史さんは歴史学者だそう。
登場人物のセリフ等は出典があるにせよ、著者のセリフで語ってストーリーが進んでいくんだから小説なんだな。
歴史学者が書くだけあって、読んでいくと当時の社会の仕組みや、人々の考え方がわかりやすく解説されている。
収録されているのは映画化された「穀田屋十三郎」を先頭に、
– 穀田屋十三郎
– 中根東里
– 大田垣蓮月
の3編。

穀田屋十三郎

映画では主演の阿部サダヲさんが演じておられる穀田屋十三郎。
この編に関しては、主役は誰なのか?十三郎がメインでストーリーが展開するわけではない。
宿救済の方法を考え主張を主に展開するのは菅原屋だし、宿の貧しくなる未来を憂え、そのために金を貯め金額的に一番の負担をおうのは浅野屋甚内親子だ。
この話は吉岡宿のために働いた吉岡宿商人9人衆全員が主人公というべき物語。そこをあえて「穀田屋十三郎」を主人公としてタイトルに持ってきている。穀田屋十三郎の家は現在も「酒の穀田屋」として酒造業を営んでおられるとのこと。十三郎たちの働きがなければ、平成どころか江戸時代をも乗り越えられなかったかもしれないと思うと、これってすごいことだよなぁ。

中根東里

3編のうち一番ピンときたお話だったな。
東里は黄檗山で学び、荻生徂徠に学び、室鳩巣について朱子学を学び、そして世の中の栄達を捨てて学問を学問するために下駄を売って生活する。
学問は商売道具にしないってわけ。在野の学者なわけだが、その学問に対する執着心と純真さがすごい。
自分の研究のために大学辞めてこもりっきりで研究している教授な感じか?もっと凄そうだな。

「穀田屋十三郎」を読み、ここまできて何となく話の持っていきかたが宮城谷昌光さんと似ているなぁと感じたから、ピンと来たんじゃないかと思う。
扱う時代も違うし、磯田さんの場合無名(現代では知られていないという意味に置いて)の人物に光を当てているのに対し、宮城谷さんの場合は中国史は三国志がメインだった時代の日本人にはなじみの薄かった人物(孟嘗君、重耳、管仲)などの作品があるがこれらの人物は大物ばかり。「沙中の回廊」の士会、「華栄の丘」の華元、「青雲はるかに」の范雎なんかはさっぱり日本人にはなじみがなかったと思うけど、在野の賢人って感じでもないし。ちょっと違うのかな。しいて言えば「介子推」って感じか?
古典のテキストの間から、想像して人物像を浮かび上がらせた感じが似ていると感じたのかもしれない。

そう思いついた直接の原因は東里が母親の葬儀に帰って3年そこにいたってところ。
晏子の服喪の様子を思い出した。あれも確か3年だったと思う。あそこまで壮絶な服喪を東里がしたかどうかはわからないけれど、3年喪に服するという習慣は当時は一般的だったのかな?
このエピソードを見て、どうも宮城谷さんのイメージがわいてきたように思う。

朱子学から陽明学へ

学問の虫東里は、室鳩巣の様な時代の大家につき朱子学を学ぶも、ある時陽明学に出会い悟る。
おのれの壁を作っているのは自分自身であり、本来本性全てのものは等しい。
花見をする酔客を見て、己も楽しむことができる境地とはどこまでいってしまうのか。

関係ないけど、「華栄の丘」が新装版で出たらしい。ちょっと食指が動いている。久しぶりに読みたいんだよな。
引越しのどさくさで見当たらなくて。。。
新装版買っちゃおうか思案中。晋楚の2大国の間の子姓の国「宋」の宰相快男児華元のお話です。

大田垣蓮月

すさまじさで言えば、この人が一番だろう。
出生が複雑であることから始まり、容姿端麗、学問武芸に及ぶまで万能。
普通の人間はひとつでも欲しいと思うものを複数持ってしまった才能。
それだけのものを持つ蓮月の人生はなかなか苦労に満ちている。
父のため、家のための結婚した幼なじみとは離縁することになり、またその間に生まれた子供とも死別。
二度と結婚はしないと決めていたが、老いた父の姿に再婚を決意。今度は良縁に恵まれるも、この夫とは死別。子どもたちも亡くなってしまう。
そこで髪を下ろし尼になるも、その美貌に言い寄って来る男は数知れず。
自分の容姿を醜くするために、自分で自分の歯を抜いてしまおうというのだから凄まじい。
自分の作品の贋作師たちにはドンドン作れといい、自分は何も持たない生活をする。
容姿だけでなく、もともとの才能と努力で手に入れた歌の才能も、金銭という意味において価値化することをしない。

こちらの郷土には

小学校の郷土関係の授業で「新渡戸傳(つとう)」の授業があったことを思い出した。
新渡戸傳は新渡戸稲造の祖父に当たる人。十和田市を流れる稲生川を開削をした人です。
治水工事、河川工事が収穫量アップと防災の一大事業だった当時において、三本木原に稲生川を引くために尽力。
ちなみにWikipedeiaには稲生川は全国疎水1位って書いてあります。(何の1位だったんだろう?)
地域に貢献したって言う意味では、穀田屋十三郎と一緒、但し新渡戸傳は民間の人間ではなくて盛岡藩家老までつとめた人物ですが。

素寒貧石徳林

何も持たないということにおいては、思い出されるのは漫画「蒼天航路」の寒貧こと石徳林。
曹操に「心腹の友(荀彧)」に似ているといわれ、最後は「貫けよ、寒貧」「あんたもな、奸雄」というセリフにしびれたあのシーンです。
石徳林は「心即理」「知行合一」といった儒教の一派ではなくて(陽明学が発生するのはずっとずっとあとの話、この対比自体がナンセンス)、道教的(もしくは神仙思想)な発想からだったのかもしれない。
まぁ、ある意味儒教の考え方の1アンチテーゼという意味ではそうかといえばそうな気もする。

無私の日本人

この本のタイトル「無私の日本人」、当時においてもここまで無私に何かをなした人というのは珍しかったろう。
故にこのように人に語られているわけだから。
「穀田屋十三郎」の中で日本人は仏の名を借りた「先祖教・子孫教」を信仰したとある。
血族ののような縦の繋がりか、自分の周りにいる人たちの横の繋がりかの違いはあるにせよ、この3編には世俗的な地位や名誉、富といったものを放棄し、なおかつそのことを自ら誇らなかった人たちが描かれている。

こうなると武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新も読んでみたいなぁ。

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