無私の「私」ってなんだろう?って考えてみる

無私の日本人」を読んで、「私」ってなんだろうってのをちょっと考えてた。
この場合の「私」というのは「自意識」っていう言葉と同じものと考える。

「殿、利息でござる!」の原作読んだ【無私の日本人】

あまり自己啓発の本は読まない。あまりというか全く。
自己啓発の必要がないとは思っていなくて、改善点ばかりだからねってところだけれども、これまで周りの人間に恵まれてきたおかげで考え方の手本にできる人、相談できる人って、愚痴聞きながら酒を飲める友達がいるので、今の所本に頼らなくてもなんとかやっていけているかな、というところ。

「無私の日本人」の中の「中根東里」の編において、中根東里は陽明学に目覚め朱子学からの脱却をするわけだけれども、この編の中において主となる話は自分と他人(他のこと)が同一であるという認識、といってもいいのかな。
「自」と「他」が同一という認識のためにまず、「自己」「私」というものの認識があることになる。
「中根東里」の編において「自」と「他」が同一であるというのは、根源が一緒であるということだと思うから、「自」と「他」は分かれて存在しそして同一であるということになるのかな。花見をしている酔客をみて自分も花見をしている気分になるためには、花も見られる対象として必要だしね。

自意識過剰の場合

なんでこんなことを考えるようになったかというと、最近ちょっと自意識みたいなことを考えるきっかけがあって。
きかっけのこととは関係ないのだけれど、仕事としてWebサイトの制作に関わっているが、Webサイトっていうのは見てもらって始めて価値が生まれるもの。
作ってお金をいただく人間としては、見てもらうため工夫をする。
それはデザインだったり、コピーだったり、文章の作り方や魅せ方だったりするわけだけれども、仕事でやる以上は「伝えたいこと」と見てくれる人の「知りたいこと」が交差するように意識している。
どのように見せるかっていうのは、誰かから見たときにどのように見えるかであって、それを考える時には自分が伝えたいことややりたいことは一度脇において考える。
そうしないと、こう見て欲しいっていうところに捕われて、勝手にこう伝わるだろうっていう思い込みに繋がるから。

人は自分が思っている以上に、自分のことを見てはいない。漫然と作られたWebサイトにアクセスが集まらないのと同様に。
自分と考え方、感じ方や価値観が違う人間を目の前に、全く同様にその意識をトレースするのはとても難しい。こう思われているかもしれないという不安感、期待感って持つし、それを持つことは社会的に生きてく上で必要な意識だと思うのだけれど、それが過剰になっては「お前のことなんかみてないよ」って言われてしまうわけで。
「自意識過剰」って言葉を考えるときに、「中根東里」の編の「自」と「他」って考え方から見ると、逆にそれは「自」と「他」の区別がついていない状態ってことじゃないのかな?なんていうか、「自」と「他」が同一であるまえに、「自分しかいない」っていうか。

ひとりよがりにならないように。
自分の価値観の反対側には同量の価値観が存在することを忘れないように。
なにもまとまらないまま、なんとなくまとめに入っているけれど。最近思ったことを、つらつらと。
ここまで読んでくださった方に感謝を込めて。

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